巻頭言

有山 正孝(電気通信大学長)

 海岸に寄せては返す波を観察するのはまことに興味深い。岩礁に砕けて大きなしぶきの華を咲かせる荒々しい波は壮観であるが、沖から寄せて来る波の列を見ているのもおもしろい。いくら見ていても飽きることがない。
 波の振るまいは千変万化であるけれど、長い時間見ていると、その中にもある種の規則性を見出すことができる。岸に打ち寄せる波には息がある。2つ3つ大きな波が来ると後はしばらく小さな波が続き、そしてまた大きな波が寄せて来る。一つ一つの波の山も、よく見れば幾つもの波が重なっていて、山を追い越して先駆けする小波、山の後に取り残される小波を見ることができる。黒々と大きな山が押し寄せて、岩に砕けてどれほど大きなしぶきを上げるかと楽しみにしていると、岸に近づく前に急速に勢いを失ってしまうこともあれば、逆にそれほどとも見えなかった山が突如盛り上がって激しく砕けることもある。
 これらは要するに波動の物理学の法則の追体験をしていることに他ならぬが、海底の地形、風などの様々な要因が加わって、一つとして全く同じことは繰り返されない。しかし長い時間にわたって見ていれば、ほとんど同じようなことは起こる。そこがおもしろい。それは人生や社会の諸々の事象にも似ている。
 研究にせよ、開発にせよ、事業にせよ、山があれば谷もある。波束の中から位相速度の早いものが先に出て成功し、遅いものは落ちこぼれる。波束の離合集散を見ていると、すべてのシステムにライフサイクルがあることを納得できる気分になる。
 自然現象のみならず、人間や人間の集まりである社会の諸現象も、長く観察しているとその中に規則性を発見できる。物理学者で優れた文筆家でもあった寺田寅彦先生の随筆に、東京市電の運行状況に関する一文があることは周知の通りである。同一路線上をそれほど厳しくダイヤに拘束されずに走る路面電車が、始めは等間隔であっても何かのきっかけで団子になる現象を分析して、明快に語られている。これも波動の一種であるが、空いた電車に乗る術としてだけでなく、奥行きの深い随筆である。
 根気よく現象を観察する性質は、おそらく一部は生来のものであるが、一部は後天的な教育により発掘され、強化されるものと思われる。このような現象を観る眼を育てるのに適するのは、いうまでもなく自然科学教育である。
 情報やシステムの分野の専門家にとっても、現象を観る眼は必要であろう。特にシステムの設計に携わる人々は、そうでなければ使い易いシステムを作れまいと思う。わが国で情報に関する分野の教育が始まってから半世紀に近く、ようやく小中高校の教育にも広く取り入れられようとしているのは望ましいが、それと引き替えに自然科学の教育が疎かにされるようであっては好ましくないと考えるのは、著者の偏見であろうか。

 もう一つライフサイクルの問題について言うと、近年、商品のライフサイクルは特に情報、通信の分野において甚だ短い。技術の進歩の速さに依るものとはいえ、短いサイクルでの大量生産・大量消費の挙句の大量廃棄は、資源問題や環境問題の観点から如何なものか。この分野でも資源の循環を考えるべき時期であろう。
 技術のライフサイクルも近年、人間の寿命に比べてはるかに短くなった。生涯学習が重視される所以であるが、次世代をどのように育てるのか、不易のものと変転するものを確かと見定めて教育の枠組みを考え直す必要があると思うこの頃である。