「老馬知道」:5年に一度は技術の棚卸しを!

機構デバイス研究専門委員長

安東 泰博(NTT)

  大先輩から聞いた話である。TO缶に封入されたトランジスタやダイオードが実
用化された時,これをやはり開発されて間がないプリント基板にソケットを使っ
て実装することがごく自然に考えられたそうだ。真空管は必ずソケットに挿入し
て実装する。同じアクティブデバイスの実装方法としては何の疑問もなく選択さ
れたと想像できる。両者の信頼性の違いが理解されていなかったためであろう。
これまでにない新しい技術が出現した時には,その応用方法,使い方等において
既存の考え方の延長では大きな間違いをすることがある。

   一方,以前に光コネクタの開発を行っていた時には,その前に担当していた電
気コネクタの知識がおおいに役立った。電気が光に変わっても操作するのは人間
であり,電気コネクタで培われた種々のノウハウは光コネクタにも生かすことが
できた。つまり,過去の知識・技術が役に立つ場合とむしろ新しい発想の邪魔に
なる場合がある。新しい技術の本質を把握し,その理解の上に立った既存技術と
のマッチングが必要である。

  韓非子に「老馬道知る」と言う言葉がある。中国の戦国時代の初代の覇王であ
る斉の桓公の名宰相として知られる管仲が遠征中に砂漠で迷った時,年老いた馬
に自由に歩ませて無事脱出できたという故事による。暗中模索で進め方が分から
ないときには長年の経験が生きるというような含意で,日本のことわざで言えば
「年の功」にあたる。だんだん年をとってきたせいもあるが,この言葉が気に入
っている。そこで,最近若い人の研究を見ていて気になることがある。その当時
と目的や対象は変わっているが,かつて先人がやって失敗した,あるいは限界が
はっきりしていることを新しいテーマとしてやっている場合が時々みられる。も
う少し文献を調査するなり,その分野の先輩に相談すれば良いのにと思うが,そ
の辺の継承がうまく行っていない,と思ってふと考えた。過去の失敗した研究が
残されているのだろうか?我々も論文を書くときにはうまく行った事しか書かな
い傾向がある。また第三者も他人の失敗をことさら記録に残すには抵抗がある。
日本人の悪い癖だと思うのだが,失敗や過ちはすぐに忘れたり,水に流してしま
う。本当は過去の失敗をきちんと総括し,二度とそのような間違いを繰り返さな
いようにするというのが危機管理の基本であるのだが,どうもその辺をあいまい
にするのが好きなようだ。

  過去の失敗も必ずしも失敗とは限らない。当時の周辺技術が未熟なためその発
想を実現できなかったものが,周辺技術の進歩により実現可能となる場合がある。
また逆に,現在うまく行っている技術であっても,そのベースとなる考え方や技
術が変化したために急速に陳腐化することがある。研究の分野にも技術の「棚卸
し」が必要だと思われる。失敗例なら,何が原因で断念し,もしこれが可能とな
れば復活し得ると言うことを整理しておく。また成功例もこういう背景のもとで
製品化した,この環境が変化すれば最適な技術ではなくなるという事を整理する。
個々人の頭の中で蓄えられている経験を共有化するわけである。私の経験を例に
すると,もう15年以上前にフェルールという精密部品を使わずに裸の光ファイバ
同士を直接接続する光コネクタを検討した。簡単な構造で低い接続損失が得られ
たので "すじ" の良い技術だと思ったが,一ヶ月くらい放置するとファイバが次
々と破断してしまうため実用化を断念した。だが,これはファイバの製造技術や
被覆技術の進歩により克服され,現在実用化に向けて進んでいる。このような展
開を個人的でなくやれれば,効率的な開発が進められると思っている。若い研究
者には,先人の知恵を大切にし,それに囚われないことを望みたい。
 現在,私は光ファイバが大量に導入された時の装置実装のあり方の研究を行っ
ているが,既存のブックシェルフ実装からの穏やかな拡張を考えている。つまり,
私の実装関係の研究経験をもとに既存技術からの飛躍は望ましくないと結論づけ
たわけである。私が道を知っている老馬であることを心から祈らざるを得ない。