巻頭言

研究は楽しいか

甘利 俊一(理化学研究所 国際フロンティア)

1.齢はや60を越えて、私の研究歴は40年近くになろうとしている。この間、研究は楽しかったといえるだろうか。今になってみれば、アイデアが実って思いがけない結果がまとまる、あのゾクゾクするような快感、高揚感は忘れられない。しかし、いつもこんなことがあるわけではない。大学院の時代や若い研究者の時代は、一方では何を研究したら良いのか、自分は果たして研究者として物になるのかと、悩みはつきなかった。ただ、若さにまかせて無我夢中でつっ走ってきたのも事実である。
2.思えば幸な時代、幸な環境だったのだろう。私の研究室は金と権力はない代わりに、雑用の類がほとんどなかったといってよい。あるのは、研究の自由と熱気であった。我が電子情報通信学会の研究会などで、私はいろいろ研究発表・討論はして頂いたが、学界の雑用などとはほとんど無縁に過ごせたといっていい。いくつかの学会から委員会の委員になれとか、編集委員を引き受けてくれという話もあったが、若さの故であろう、無礼にも断わったことが多い。その代わり、研究はほとんどすべて個人研究で、自由にテーマを選んだ。代数的トポロジーによるグラフ構造の解析、微分幾何による連続体力学、学習やパターン認識、神経回路網の数理、情報幾何学を構築してこれによる統計、制御システム、情報理論などなど、数理的な方法は重んじるものの研究テーマそのものは自由に変えてきた。それによって視野が開け方法が豊かになったと感じるのである。
3.こういうと、いかにも牧歌的な時代に聞こえるかもしれない。しかし、世の中では教授の権威といえば今とは比べものにならない位高く、近寄り誰かった。その後大学の窮乏化が20年にわたって進み、企業でもバブル期の意気込みはどこへやら基礎的な研究をじっくりと育てる方向気運はしぼんでしまったように見える。こうした閉塞感を打破すべく登場したのが、科学技術基本計画である。これによれば政府は基礎研究、戦略研究の資金を画期的に増やして、科学技術創造立国を目指すという。現に、公募型の大型研究が動き始めた。創造的な研究者に直接に研究資金を提供し、既成の秩序をこわすという。一方で、ポスドク研究者一万人計画、大学の任期制など、大学にも競争原理を導入して研究者の流動化を促すという。たいへん結構なことではあるが、注意すべき問題点も多い。たしかに、今までがひど過ぎたといえるだろう。たとえば有力大学の工学系の学科で、教授助教授の中で自学科出身の者が半数以上を占めるなど、研究のこの国際化の時代に大学は何をやっているのだろう。自分の言うことを聞くものだけで固める一族意識が、今だにまかり通っている。これでは自由で楽しい研究ができる筈がない。しかし、いたずらにポスドクを増やし、有力研究者に金をつけるだけではこの矛盾は解決しない。下手をすれば、この政策は研究者の生涯賃金の大幅値下げになりかねないから、政策を決める側のこれからの一層の努力が必要になる。研究をのびのびと楽しくでき、しかもすばらしい成果が挙がる方策を長期的に考えていかなくてはいけない。自由の代わりに”金しばり”では困る。
4.研究は楽しいものでなくてはいけない、そして、60才を越えても研究は楽しいのである。考えてみると、時代毎に研究テーマを大きく変え、それが後で融合して大きなものになることを見てきた。今また新しいテーマに心配、興味、快感を味わっている。降りかかる雑用をなんとか我慢できるのも、研究の楽しみがあるからである。私はいまでも単著の論文をものし、国際学会で人と違った方向から新しい成果を発表するのを楽しみにしている、とはいえ、もはや老残の身であることも十分承知している。これからは研究を楽しみつつ、若い人が研究を楽しめる環境を作っていくのが使命なのであろう。心しなければいけない。