The Institute of Electronics, Information and Communication Engineers


現場が大事

通信ソサイエティ会長 赤岩芳彦

 裁判官の長になった人が訓辞において,「平目」になるな,と言ったそうである.裁判官が上級裁判所の意向を気にして,自分自身の判断をおろそかにする風潮を懸念してのことである.その背景には,裁判現場よりも事務方が評価されているという事態があるようだ.これが印象に残ったのは,「平目」という言葉使いを,会社を辞めた友人が,少し前にしたからである.彼の言によれば,その会社での研究開発部門のリストラの激しさに,若い研究者が上司に対して,首をすくめて,魚のひらめのように上目使いをするようになったそうである.苦しい状況に落ち入った中で,会社を存続させるためには,大改革を行わなければならないことは当然である.しかし,現場に立っている若い技術者が平目になったのでは,改革の成否が気にかかる.

 組織がおかしくなるのは,上層部が状況の変化の速さと大きさに気付くのが遅いからである.なぜそうなるのか.過去の成功体験に固執して思考停止になっているからであろう.状況の変化あるいはその予兆は現場に先に現れる.したがって,有能な経営者は例外なく現場情報を大事にし,それを基にした戦略を練り,実行させるとともに,常に実行結果を評価(点検)しているように見える.ところが,組織の長に立つ人で,綺麗な言葉を使うだけであとは気にしない人がいる.大事なことは,何をいったかや予算を取ってきたかではなく,何を成し遂げ(させ)たかである.結果の評価と,それに基づく顕彰あるいは責任の追求を忘れてはならない.

 不幸にして上司や組織に恵まれなかった技術者,研究者はどうしたらよいであろうか.自分の力をつけるしかない.板前職人さんのように包丁(技術)一本で,生きていく覚悟をすればよい.研究開発では,突破口となる新しい考えを必要とする.これは,たいてい,現場にいる個人のみが成し遂げられる.そのためには,問題の本質を見抜き,異なる観点を気にかけつつ,失敗を重ねながらもあきらめないことである.ところで,研究開発で行き詰まったとき,基本原理ほど頼りになるものはない.前提条件を忘れずに原理を的確に理解するとともに,実際の問題に応用できなければならない.言い方を変えれば,「抽象から具体へ一気に急降下しても,窒息しないで耐えられる力が必要である(鶴見俊輔)」.例えば,理論解析を行う場合には,課題を抽象化したモデルを立てるとともに,数式で表現しその数式が語っている(現場)内容に耳をすまして聴き取ることができなければならない.

 学問あるいは技術の課題を達成したときの喜びは,やったものしか味わえない現場の人間の特権である.学会は,研究開発現場にいる技術者にとって有り難い存在である.自分の達成した成果を,かなり公平な立場で認めてくれる場所だからである.どこかの学会の雑誌かも忘れたが,ずっと昔の論文で,「不幸な事情によりこの論文はこれまで発表できなかった」とのただし書きが添えられたものを見たことがあった.どのような事情があったかは分からないものの,学問に生きる著者の心意気を感じたものである.現場が大事にされ,若い研究技術者が平目などにならず,伸びやかに,しなやかに仕事ができるように願いたい.

 さて,本学会の財政は危機的な状況にあります.そのため,私どもの通信ソサイエティは他のソサイエティに先駆けて,独立採算化の検討を行っている最中です.学会活動を低下させることなく,どうして財務を健全にするかは困難な問題です.学会役員の一人として,私の責任は重いことを認識しています.学会活動の現場に近い会員の皆様方の批判と助言を大事にして,改革を成功させたいと思います.


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