The Institute of Electronics, Information and Communication Engineers


『感覚』について

企画理事 石原 直

 ナノテクノロジーが大いに注目を集め,研究開発が活発に行われるようになっている.1ナノメートルは10−9メートルであるが,この寸法に対して人々はどのように感じ,その世界の現象に対してどのような感覚を持つであろうか.

 物事のイメージをつかむ際には,まずは実際にあるもの,身近なものからの連想や比較をすると分かりやすい.我々が住む地球の1周は御存知の4万キロだから,その直径は約1万3千キロ弱.これを10−9倍すると13ミリ弱となることから,地球の10−9倍はビー玉といったところである.地球を直径1メートルの地球儀に縮小する倍率でビー玉を縮小すると直径は1ナノメートル,原子なら数個の大きさになる.ナノテクノロジーはこのようなナノサイズの原子や分子,あるいはDNAやたん白質を組み立てて新たなものを作ろうという技術である.実際,我々はナノスケールの原子や分子を観察し,操作する手段を既に持っているのだから,それらを組み立てて何かを作ることはできるはずであることは連想できる.しかしながら,原子・分子のサイズの世界において,大きさ,重さ,固さなどそのモノの性質に関する感覚を持つことはなかなか難しいかもしれない.

 人間は素晴らしい能力を持っている.年がら年中ナノメートルという単位を扱う仕事に浸っていると,研究者という専門家の中にはその世界の感覚ができてくるものである.筆者の稚拙な体験談を御紹介すると,シリコンウェーハをナノメートル単位で移動させたり位置決めしたりといった仕事を扱っていた際のナノ世界の感覚は次のようなものだった.モノの固さについていえば,ゴルフクラブのような固い棒が釣りざおのようにふにゃふにゃな柔らかい棒になり,ブロックゲージのような鋼鉄の塊が豆腐のように柔らかく感じられる.位置決めについていえば,指し棒で黒板上の一点を指示する際に,釣りざおの先で正確にポイントを指さねばならないという難しい状況になる,という感覚である.要するに,固さの表現では長さが分母にくるので,そのディメンジョンがどんどん小さくなるとモノがどんどん柔らかくなるというわけなのだが,このことを以上のようなたとえ話で説明すれば,感覚として理解が得やすいのでないだろうか.

 このようなナノ領域の機械的性質に限らず,ナノの領域で研究を行っている研究者は『ナノ感覚』を身に付けている.感覚があるからこそ,現象を理解して理論を構築し,それを確かめる実験を企画し,実験結果を解釈することができるのである.いわば,その世界の感覚を身に付けることが研究者の成長そのものであり,感覚を身に付けた人がその分野の専門家たり得るということであろう.もちろん,これは別にナノテクノロジーという研究分野とか専門家とかに限ったことではなく,あらゆる分野において同じことだろう.この原稿を執筆中にたまたま,シアトルマリナーズで大活躍中のイチロー選手がインタビューに対して,『今の打席でうまく打てたかどうかは自分の感覚で打てたかどうかです.』と答えていた.分野は違っても,『プロ』というのは『感覚』を身につけた人という意味で同じなのだと思った次第である.

 ところで,本学会は電子・情報・通信の分野を専門とする専門家の集まりである.会員のほとんどが本分野の技術にかかわる方々なので,皆さんこの分野の『感覚』を身に付け,その感覚を使ってコミュニケーションをやっておられると思う.共有の感覚をもとに学会内で議論すれば感覚に更に磨きがかかるだろうし,感覚を共有していない専門を異にする方々とは感覚をイメージしてもらうために上記のような体験感覚を利用することもコミュニケーションに有効であろう.いずれにしても種々の世界を知りそれを活用する上で『感覚』が重要な役割を果たしていることは間違いないと思われる.


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