■2. 社会基盤とインタラクション

 戦後日本の60年近くにわたる経済復興と成長の間に,忘れ去られたかに見える技術が二つある.一つは社会基盤(social infrastructure)に関する技術である.日本の土木技術は世界に冠たるものではないか,という人も多いであろう.そのこと自体はそのとおりである.しかし,この世に生まれ,育ち,生活をしている個々の人間,それらの人々が暮らすコミュニティ,更には広域社会,国レベルに至るまで,暮らしやすさ,住みやすさ,安全性,健康への配慮,テロ対策等を含めた安心感等々について,ITをはじめとする様々な分野の技術者,政策担当者はどのような対応をしてきたであろうか.

 二つ目は人間と環境のインタラクションに関する技術である.人間はその高次の精神的能力を持って,常に環境に働きかけ,環境を変えていく生物である.一方で人間は,体,心,社会関係のすべてにわたり,常に環境からの影響を受けている.このように,人間と環境の関係は双方向かつダイナミックなものであり,人間生活にかかわるすべての技術について,人間と環境の「インタラクション」(相互作用)の概念が極めて重要である.例えば環境公害の問題も,人間が環境を改変している面と環境が人間に影響を与える面の両面でとらえなければならない.人間・環境システムのデザインにはインタラクションの概念が不可欠である.

 しかし,上に挙げた二つの技術,「安心・安全な社会基盤」及び「人間・環境のインタラクション」に関する技術は,技術者や政策担当者の間で,ある意味で置き去りにされていたといってもいいように思える.置き去りにされてきたとすれば,その基本的な理由は,経済成長が個々の生活者,市民の人間的な生活基盤の追求を置き去りにしてきたことにあるのではないか.日本の平均的住宅環境が,いかに狭い国土とはいえ,人間という生物が住むべき環境として,一般に余りにも狭く,劣悪に過ぎることは,その典型的な例であろう.

 もちろん,こうした後進性は,単に技術者や技術政策担当者だけの責任ではない.戦後日本の産官政学護送船団体制のもとで長い間温存されていた,社会基盤にかかわる法規制によるところが大きいであろう.しかし,建築・土木等の社会基盤とIT,厚生・健康等の生活基盤とIT,防災・テロ対策等の安全基盤とITといった異分野の融合技術,システム化技術について,とりわけIT関係者がどれだけ真剣に取り組んできたかといえば,いささか心もとないように思える.


■3. 知的社会基盤工学


 上記のようなことをいろいろに考えながら,筆者は1990年代に入って二つの新しい道を目指してきた.一つは「知的社会基盤工学」(Intelligent Social Infrastructure Technology)であり,もう一つは「人間・ロボット・コンピュータインタラクション」(Human-Robot-Computer Interaction)である.

 数年ほど前から,筆者は自分の専門分野として,認知科学,情報科学に加えて,知的社会基盤工学と書くようになった.知的社会基盤工学とは,ITや生命科学の知見をも踏まえて,安全で安心な生活の社会基盤を構築,管理,運用するための工学のことである.

 1994年に1年間準備委員会が開かれた後,1995年に通産省工業技術院産業科学技術研究開発制度による先導研究「知的社会基盤工学技術」が知的社会基盤工学技術調査研究委員会を組織して発足した.この委員会には,産官学全般にわたり,IT,建設,鉄道,水道,ガス,警備,その他関係分野の多くの委員の方々が参加,2期各2年,計4年間にわたる調査研究期間に多くの議論が行われた.とりわけ,1998年には「知的社会基盤工学技術シンポジウム〜安心できる社会のためのインフラ革命〜」が慶應義塾大学三田キャンパスで開催された.筆者は,こうした活動や関連分野の研究経験を積み重ねる間に,知的社会基盤工学と名付けたこの分野の重要性と発展性を確信し,ITの進化に支えられる21世紀社会インフラを総称する用語として「知的社会基盤工学」を自分の専門分野として書くようになった.

 そのころの技術政策の空気は,いわばサプライサイドからの技術重視だった面もあり,当初はなかなか理解されずに過ぎたが,その後の阪神・淡路大震災を経て,最近になって,国際社会情勢の緊迫化に伴う情報セキュリティや防災関連技術への注目,日本の経済情勢の悪化に伴う経済活性化のための情報技術への注目等の中で,知的社会基盤工学技術への関心が高まりつつある.例えば,上記委員会のメンバーが核となって,産業技術総合研究所に「サイバーアシスト研究センター」(中島秀之センター長)が創設された(3月には第2回国際シンポジウムを開催).情報処理学会には「知的都市基盤研究グループ」が誕生,最近「情報家電コンピューティンググループ」と統合して「ユビキタスコンピューティングシステム研究会」(主査:徳田英幸慶大教授)が新設された.また,21世紀COE拠点として慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)に設置された「次世代メディア・知的社会基盤」プログラムにも「知的社会基盤」の名称が見られる.政府のIT戦略会議を中心としたいわゆるe-Japan計画も大幅な見直しが行われ,サプライ側でなくデマンド側からの計画が立てられる方向にあることも,ITが知的社会基盤工学技術に接近する兆候を示している.




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