■6. 学術研究ネットワークと商用ネットワーク

 JUNETのように大学の研究を背景として進められてきたインターネットの運用が,92年にパソコン通信という商用のネットワークと相互接続を進めていくという動きによって,大変大きな需要が生まれてきた.このときにUUCPのネットワークであるUSENETで一緒に取り組んでいた仲間の一人,Rick Adamsというアメリカの国防省地震観測研究所のエンジニアが,この需要拡大を見越してビジネスとしてスタートするべきだと考え,研究所を退職して,1987年にUUNET Inc.という商用サービスの会社を始めた.最初はUUCPの商用運用を手がけていたが,そのうち,おもしろくなってきてTCP/IPの接続を商用で開始することになった.これが商用ネットワークサービスの最初のケースだったと思う.それが90年代初めのことである.

 さて,Rick Adamsの商用インターネットへの進出には二つの大きな背景があった.一つは,マーケットの要求であり,ネットワークの利用への関心が一般企業に高まってきたことにある.後のインターネットバブルへの流れはこのマーケットの熱気から生まれてきたともいえる.

 もう一つの背景は,国防総省とNSFの学術研究インターネットへの大きな援助をきっかけとした,AUP(Acceptable Use Policy,インターネット利用規定)の設定だった.Rick Adamsはインターネット上での自由なディジタルデータの交換と共有を極めて強く主張し,この主張を実現するために当局の規制のかかりにくい純粋な商用インターネットサービスを目指した.こちらの背景は,インターネットコンテンツに対する規制や知的所有権の議論へとつながる大きな基盤を形成した.

 商用化に対する要求と議論は日本でも熱を帯びてきており,WIDEプロジェクトを中心としてみんなで少しずつお金を出して商用のサービスを作ろうという働きかけをやっていた.まず,WIDEで動かしているインターネット運用のモデルが商用化の可能性があるのかを検証するために,郵政省の下でいろいろな専門家に入って頂いて研究会を開いた.WIDEで運用しているインターネットの需要が大きくなっているが,商用化としてスタートできるかどうかを検討してきたわけである.ところがその結論は商用化は難しいだろうということだった.WIDEでの実績はあくまで研究活動としての運用であり,そこで予測される伸び率は,共同研究の仲間が増えてくるに従って増加するのみにとどまり,これを顧客として換算していった場合には,営業活動その他の状況が全然異なるため,ビジネスとしての採算にはつながらないというもので,結論は余りに悲観的なものだった.それでも,筆者らは商用化は絶対に必要になってくることを主張し続けていた.そうしないとWIDEプロジェクト自体が運用活動に時間をとられすぎ,研究活動として続かなくなると考えており,とにかく商用化を急務として進めたかった.

 そこでスタートしたのがインターネットイニシアティブ(IIJ)社である.IIJはWIDEのボードメンバーが少しずつ出資し,当時アスキーにいた深瀬氏に社長をお願いしてスタートした.AT&Tを基盤としたSPINというサービスも同じ時期に商用化した.この二つが日本で最初の商用インターネットサービスの会社である.

 このように商用のインターネットが出てくる中で,一方ではWIDEは研究の共有のテストベッドとして日本のインターネットの基盤を作ってきた(10).大学の研究開発の部門をつないできた中で研究者たちが集まって,WIDEプロジェクトとして研究開発を行い,問題発見をして解決をしていくというプロセスをとっていく.一方では文部省の下はOSIのプロトコルでスタートしたネットワークSINETが,やがてインターネットプロトコルを採用するようになり,これがそれぞれの国立大学のネットワークをつないで大学のネットワークを形成した.

 WIDEやSINETから出発した日本の大学をつないだネットワーク,IIJ,SPINから出発した商用ネットワークが,学術研究ネットワーク,商用ネットワークそれぞれの役割をもった大きなネットワークとして発展し,日本のインターネットが形成されてきた.

 政策とインターネットという件では,日本のITは大変遅れている,10年の遅れといわれるようになってきたが,これは結局インターネットの発展から見るとどういうことかというと,商用ネットワークが1995年くらいからできて,そこから先が本当のオペレーションになった.そこから先の1999年くらいまでの5年間が,日本にとっては暗黒の時代だった.

 92年,93年というのは,日本のインターネットの基盤は世界をリードしていたと思う.世界に大きな貢献もしていた.これはアメリカが進んでいるとかヨーロッパが進んでいるということではなく,日本は90年前半には同一線上か先頭を走っていた部分がたくさんあったと思う.

 しかし,1995年からの5年間は,商用ネットワークができてその社会展開が世界中で起ってきた時期に当たる.1999年ごろに「日本のインターネットは遅れている」という議論があちこちで起るようになった.技術者の筆者らにとっては寝耳に水だった.日本のインターネットは遅れている?そんな馬鹿な.日本が一番進んでいると自負していたものが,世論がそのようにメッセージを送るので驚いた時期があった.

 検証してみると,確かに社会展開が遅れていた.社会展開が遅れていた理由は三つある.一つは教育の現場で遅れていた.つまり,学校教育へのインターネット導入や利用者に対するコンピュータ教育などの展開が結果的に日本はできていなかった.多くの先端的な試行と努力があったために,順調に発展しているように錯覚をしていたけれども,統計的には大きく他国に及ばなかった.

 二つ目は金融関係である.金融関係の処理に関してはコンピュータの大変大きなマーケットでもあったし,コンピュータネットワークの大きなマーケットでもある.商用ネットワークの発展を担う重要な分野である.しかし,このマーケットは日本のインターネット業者は獲得できなかった.日本の金融業者がコンピュータの導入,ネットワークの導入というものをインターネットを介しては行わなかったためである.

 三番目が公共サービスや,世の中のサービス.例えばアメリカでは書籍の販売をはじめとして,インターネット上での通信販売によって商用インターネットは発展したが,日本ではなかなか始まらなかった.また,公共サービス,税金のやりとり,納税,役所の行政サービスの参照など,このような分野がインターネットを使って急激に発展してくるのだが,これも日本ではなかなか進まなかった.

 日本における,教育,金融,行政の分野は三つとも規制の強い領域であり,政策として手を打たなければインターネットの導入が困難な分野である.これができていないというのが,日本の遅れということだった.そのことが1999年から2000年の小渕政権のときから大変大きな課題になってきていた.アメリカでは経済的効果にインターネットが非常に大きく貢献したということもあって,日本でもIT政策という名前の下で,この三つの分野の遅れに耳を傾けるという体制が作られた.

 基本的には高度情報通信ネットワーク社会(IT)推進戦略会議でIT戦略を作り,その体制を実現するための高度情報通信ネットワーク社会(IT)推進基本法という法律を作る.IT基本法というのは,基本的には国民のだれもがインターネットの利用をできるようにすることが記述されていて,それに従った重点計画ができた.この重点計画は「e-japan」という名の下に,2005年までの日本のIT政策を整える計画として推進された.



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